「統一教会の上をいく反日カルト勢力」

昨日は77回目の終戦記念日を迎えました。
 
日本人の多くの人々と同じように、我が家も先の大東亜戦争では父の3人の弟と、母のたった一人の弟が戦死しています。
 
父親は幸いにも終戦からほどなくして復員したのですが、それまで勤めていた国鉄の機関士の仕事を辞め、傘修理の行商の仕事に転じました。
 
何故、安定した収入が保障されている国鉄の機関士の職を捨てて、その日暮らしの傘修理の商売に転じたのかは不明です。
 
父の生前、そのことを尋ねたことはありませんでした。子供心にどうして傘修理の仕事などに就いているのだろうと疑問を持っていましたが、そのことを口に出して父に言うことは憚られたのです。
 
父自身、就いている傘修理の行商の仕事に決して満足していないことはわかっていたからです。
 
ただ、どうしてその仕事を選んだのだと尋ねることは、子供心にも傷口に塩を塗りこむようなことだと口を閉ざしました。
 
それにしても、あのその日暮らしの貧乏な日々でよく母は耐えられたものだと、今更ながらに感心するのです。
 
雨が降っては駄目、晴れが続いても駄目、というニッチもサッチもいかないような仕事を選んだ父の代わりに、母はそれこそ朝早くから夜遅くまで、寝る間を惜しんで働いていました。
 
母はよくもあんな生活力のない父に我慢をして、別れることなく夫婦生活を続けていたものだと不思議な気がしますが、答えはすごく簡単で、母は父に惚れていたのだと思います。
 
夫婦の夜の営みを目撃したことがあって、それ故に申しているのではありません。母のふとする仕草に惚れた女のそれを見て、子供心に父と母は惚れ合っていると納得していたのです。
 
それにしても、雨や晴れの日は商売にならない、といった絶望的な仕事を父はよく続けていたものよ、とその我慢強さに驚きを覚えるのです。
 
運に見放された人間は、人一倍働き者で忍耐強くなければ生きていけないという「人生の真実」」を自らの生き方で証明しているかのような父でした。
 
しかし明日の見えない、救いのない状況にあっても、父は口癖のように「今に見ていろよ」と言うのでした。
 
どういう根拠で、「今に見ていろ」と願っている成功を手にすることができると考えているのか、全く不明でしたが、「今に見ていろよ」とのタンカを切るのを止めることはありませんでした。
 
ただ、その根拠らしいものが一つだけ…
 

 

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