内閣の調査によれば、このコロナ禍で「生活に悩みや不安を感じている」という人が過去最高の約8割にのぼるといいます。
メディアが飯のタネに「コロナ恐い」と扇動した挙句、その影響を受けて国民が疲弊してしまっていることが明らかです。
お釈迦さまは「この世は無常である」と説かれました。
「無常」とは、常に変わらないものなど何もない、ということです。どんなに楽しいことでもまた、どんなに苦しいことでも、いつか終わりが来る、ということをお釈迦さまは述べられているのでございます。
ネガティブ思考に陥ると、人間は心ばかりか体の内臓などを傷つけて病むことになります。
物事をネガティブに考えていいことは一つもありません。起きるべき全ての不幸やアクシデントは、いつか自分を成長させる糧となるものだ、とお考えになるのが正しいのでございます。
自分自身を守るのは結局のところ自分自身でしかありません。不必要なネガティブ思考となって自らを痛めつけてどうするのだ、というのでございます。
大切なことは、死んだ後のことなど考えずに与えられた命を生き切るということです。
過去を振り返れば、よくぞ今日まで生きて来られたものだと己のことながら感心することばかりです。
結局は運の良さに救われて今日まで生きながらえることができたのでございますが、その運を引き寄せたものの一つに「楽天的に物事を考える」自分の性格があったように思います。
何故、あんなに様々な崖っぷちの状態であったのに楽天的に考えることができたのか、今考えると不思議な気がいたします。
昨年の2月に大腸憩室で倒れた時もそうでした。
大腸から大量に出血し、血圧も60を切るほどに低下し、命の危険にさらされているというのに、練馬の病院から横浜の大学病院に運ばれる救急車の車内で、付き添った新米女医が点滴の針を上手く刺すことができずにいるところを苛立って叱りつけていたというのでございます。
この現場を目撃した同じ救急車に同行していた手前どもの女社長が「アンタの楽天家ぶりは筋金入りだね」と驚いておりました。
普通の病人ならば救急車が大学病院に到着する前に大量出血で命を落とすほどの自らの状態に慌てふためき、とても同行の新米医師を叱りつけるような元気はなかっただろう、というのです。
が、手前どもは救急車で1時間近くの道中を運ばれる時でも、不思議なことに自分がこの状況で死に至ることなどは少しも考えなかったのでございます。
どこからそうした「自分は死なない」という確信が湧き出ていたのかわかりませんが、その時は自分の命が尽きかけていることなど疑いもしなかったのです。
大学病院で手術を受け、命を取り留めた後で担当した医師から「危険な状態でした」と知らされ、はじめてゾッとした間抜けぶりでございました。
こうした自分の命に対する鈍感さ、中途半端なことでは死なないだろうという確信は、生来の楽天的性格から来ているものなのですが、こうした性格に育ててくれた両親に今更ながらですが感謝をしなければいけないと思う今日この頃でございます。
楽天的性格(多分に無知が大部分を占めていますが)を武器として生きている手前どもですが…
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