◆祥伝社新書「禁断の説得術 応酬話法」
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下記書店にてサイン本を書かせていただいております。
ジュンク堂書店池袋本店さま
三省堂書店池袋本店さま
ブックファースト新宿店さま
ブックエキスプレス京葉ストリート店さま
八重洲ブックセンター本店さま
丸善丸の内本店さま
神保町書泉グランデさま
三省堂書店神保町本店さま
◆「実話ナックルズナイトVol.5」に出演いたします。
4月5日(木)
新宿御苑ROSSO
18時開場/19時開演
入場料:¥2700+1D
ご予約:https://form1ssl.fc2.com/form/?id=68c614edfdc73b0e
先週の日曜日3月11日は東北大震災から7年。この間、色々なことがありました。
地震の当日は新宿のビルの8階にある事務所にいました。揺れがひどくて本棚から本が全部飛び出て、床に落ちました。
一緒にいた友人は、慌てて事務所の外に飛び出して行きました。8階なのに。
エレベーターも止まったようで、下へ行くことができず、諦めて戻ってきました。
その身のこなしは、いつもの彼とは異次元の素早い動きでした。
火事場の馬鹿力、というように、いざとなったら人間は豹変することを知らされたのです。
8階の事務所の窓から外を見ると、新宿通りに面したビルが大きく横に揺れているのが分かりました。
が、倒壊しているビルは一つもありません。事務所の入っているビルも大きく左右に揺れ続けていましたが、窓の外のビルがどこも大丈夫な様子なので、このビルも大丈夫だろうとひと安心したのです。
地震が起きた途端、目の前から一目散に姿を消した友人に向かい、「自分だけが助かればそれでいいの?」と言うと、彼は色をなして「監督の逃げ道を確保しようと思ったんです」と抗弁しました。
彼は小心者です。可哀そうなので、それ以上問い詰めることを止めにしました。
それからテレビを見ると、東北の三陸沖が震源地で、大変な被害が出ていることが予想される、との報道がなされていました。
いずれのテレビ局も報道特別番組を組んで流していました。しかしその時点では、よもやあれほどの大災害を引き起こしているとは思っていませんでした。
時間が経つにつれて、三陸から仙台、福島の浜通りにかけた一体が壊滅的な被害を受けていることが分かってきました。
被害の状況が分かってきて、これから東北はどうなってしまうのだろう、と暗澹たる気持ちになりました。
わけても福島の原子力発電所の被害状況が心配でした。生まれ故郷にあの原子力発電所があったからです。
あれからアッと言う間の7年だったように思います。あの大地震の時、我先にと逃げ回った友人とは現在連絡が取れなくなりました。
噂では病の床にあるとのこと、他人から同情されるのが嫌いな男でした。彼の病が無事癒えて便りが来るのを心待ちにしています。
あの震災で知人の何人かが死に、生死の分からないままに連絡が途絶えた人間もいます。
一寸先が闇、といいますが、その言葉の意味をまざまざと噛みしめることになった出来事でした。
人生では地震に限らず、なんでこんなトラブルに巻き込まれるのだろう、と思う惨事に遭遇することがあります。
あんなトラブルに巻き込まれるなんて、と、どう考えても承知できない理不尽なことです。
しかし人生を振り返ってみれば、己の身にふりかかる事故や病気や災いには、あうべくしてあっているような気がするのです。
齢をとったせいか、それが人生なんだ、と最近では不運な出来事を泰然として受け入れることができるような心境となってきています。
悟った、といった、たいそうな心の持ちようではありません。ジタバタしても身に降りかかる火の粉が止むわけではないのだから、不平不満を口にせず、ただ焼け焦げないように懸命に払うことだけを心掛ける、といった心持ちです。
周りを見渡せば、自分以上に大変な思いをしている人たちは沢山います。その人たちがそれでも音を上げることなく必死になって生きている姿を見れば、なんと自分は甘ったれた人間かを知らされるのです。
3.11の震災の日、テレビでは様々な特別番組が放送されていました。その中のひとつに、震災で最愛の娘と息子、母親と父親を亡くした女性の姿をとらえた番組がありました。
女性は震災の地に建てられた慰霊塔の傍の小屋の中に入りました。その小屋の中には亡くなった娘と息子、母親と父親の名前が書かれた人形が飾られていました。
「いつもこうして会いに来ているんです」と笑顔を見せる女性の顔には涙はありませんでした。
この7年の間に涙は枯れました、と語っているような表情に見えました。
女性は「私たちができることは死んだ皆が遺してくれた震災の記録をできるだけ多くの人に伝えることだと思うんです。そして自分たちは同じような悲しい体験を二度としないようにすることが、死んだ人たちの死に報いることだと思います。
それにはまず、何故安心なのか、その安心の理由を自分で確認したのか、ということです。自分が本当に安心でいられるかを今一度確かめた方がいい、ということです。そして地震が起きたら、まず何を差し置いてもできるだけ遠く、高くに逃げること、に尽きます」。
彼女の話を聞いて、震災後、三陸海岸につくられている高い防潮堤のことを考えました。コンクリートの高い壁に遮られて海が陸地から全く見えなくなるような土地に、これから先、誰が住むのだろうか、という疑問です。
美しい自然の三陸の景観をそのまま残し、地震が来て津波の恐れがある時はいち早く高い場所へ避難する用意を徹底することを選択すべきではないかと考えるのです。
そのための警報システムや、住民の避難に必要なソフトとハードを完備することでコンクリートの高い壁をつくり、誰も近づくことのできない海岸をつくることではないのです。
これまで何度も書いてきましたが、そもそもあの大地震であれほどの被害者が出たのは気象庁とNHKをはじめとする放送局の失態です。
地震が発生した時、三陸海岸の沖合数十キロの海にいくつも設置されていた津波探知はこれまでにない津波が起きることを感知していました。
気象庁はこれらのデータをいちはやく計測し、大津波が起きるとの警報をただちに発信しなければなりませんでした。
が、三陸海岸に二十数メートルの大津波が押し寄せているまさにその時、気象庁は最大6メートルの津波警報を出しているだけでした。
地震発生後1時間が経ち、ようやく「10メートル以上の大津波の恐れ」の警報を出したのです。
しかし…