「我が義妹のこと」

この世の中には破れかぶれとなって地団駄を踏んでも、免れることのできないものがあります。
 
死もまたその一つです。
 
それらはいくら大騒ぎをしても太陽が西に沈むことを止めることができないように、泣いても叫んでもどうしようも逃れることができないことです。
 
しかし私たちは、太陽が西に沈んで夜が訪れることを「どうしようもない自然の摂理」として受け入れていても、自分の死を同じように自然なこととして不動心で受け入れることができません。
 
1時から2時に時間が進むことや、夜が明ければ朝が来ることを受け入れることができているのに、自然の定理である自分という人間の死には目を閉じてしまい、見つめる勇気を失っています。
 
しかし、、世の中にあるどうしても受け入れられないことをジタバタしても結局は受け入れて生きているように、圧倒的存在感をもって私たちの前に仁王立ちになっている、その死もまた受け入れることができることを、やがて知ることになります。
 
それはどうあがいてもそれは不可抗力だ、と諦めることです。
 
この「諦めの心境」に至るまでには時間が必要ですが、時間を経れば「死」を「免れることのできないもの」として、夕陽が大海原に沈むのを受け入れるように、静かに受け入れることができる季節がやってきます。
 
私たちは「死は恐ろしい」との観念を持っています。
 
しかし具体的に何が恐ろしいのか、と問われれば明確に答えることができません。
 
意識が無くなってしまうこと、が恐ろしいのであればそれは人間が誰しも夜毎体験している「睡眠」と同じ現象に過ぎません。
 
睡眠で意識を失うことが怖くなければ、意識を失うことそれ自体は恐怖でもなんでもなく、死が恐ろしいと定義するには値しません。
 
「死が恐ろしい」と考える人の「死のイメージ」は火葬場の狭い火葬炉に入れられて、業火に体を焼かれる自分の身を想像してのことです。
 
しかし、死んでしまえば意識はないのですから、火葬場のあの狭い火葬炉での我が身を考えることは無意味なことです。
 
死んでしまえば、焼かれようと煮られようと、埋められようと、そんなことは知る由もないことなのです。
 
こうして考えると、死が恐ろしいという考えは想像の産物であって、事実は恐ろしいことなどなく、ただ意識を失って、なにも分かることができなくなるだけのことに過ぎません。
 
死の恐怖の一つに、自分が死んでもこの世の中の営みは何も変わらずに続いていく、ことへの嫉妬があります。
 
人間は自分の死と同時に、この世も終わって欲しいとの秘かな願望を持っています。
 
右の人も左の人も、地球上全ての人間が一緒にお陀仏となってあの世に行くならば、死の恐怖は存在しません。
 
自分だけが仲間はずれにされて一人ぼっちになってしまう嫉妬、そして自分がいなくなった後も楽しい人生を歩んでいく人たちへの嫉妬が、孤独の恐怖心を生むのです。
 
いずれお互いさまであの世に行く同窓の身、と考えれば死の恐怖をやわらげることができます。
 
いつか死んで無になる身であれば「生きる」ことなど無意味ではないか、という考えがあります。
 
行きつく先が「死」という無意味のゴールであれば、無意味なゴールに向かって苦しみながら走り続けている人生などに何の意味があるのか、という、ニヒリズムの考えです。
 
どうせ死んでしまうのだから、人生に意味など求めても仕方がないじゃないかとの刹那的な考えです。
 
これらの考えは…
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