◆週刊プレイボーイ4月17日号「この人だって父である」ご笑覧いただければ幸甚でございます。
運命は従う者を導き、逆らう者を引きずって行く、といいます。
さながら不倫騒動で渦中の人となった渡辺謙さまは、運命に有無を言わさず引きずられている感があります。
今更、ではございますが、芸能人に貞操を求めるなどというのは、野良猫に魚をとるなと説教するがごとき無謀なことでございます。
芸能人は普段私たちの生活で見ることのできないものを見せて楽しませてくれればいいのでございます。
品行方正で女房孝行の一穴主義者など誰も望んではいないのです。それなのに、不倫だ浮気だ裏切りだ、とメディアは大騒ぎをして当事者を追い詰めるのです。
たとえ不倫であってもそれは、当事者の問題で外野にとやかくいわれる筋合いは何もないのです。
メディアはいつから不倫を許さず女遊びを厳しく批判する裁判官になったのでしょうか。
脚本家の倉本聰さまは、自分が書いて届けるドラマは「心を洗う作品であって欲しい」と語られました。
「心を洗う」作品とは善男善女が出演する予定調和の退屈な作品のことではありません。人間の実相に赤裸々に迫り、容赦なくその愛の営み、復讐、後悔、希望と挫折を描くことです。
このことを倉本聰さまは「子宮で泣かせて睾丸で笑わせる」と表現しています。
こうした鳥肌の立つ作品を描くのに、金太郎飴のようにいい人ばかりが出演していては胸を抉るような作品をモノにすることはかなわないのです。
役を演じる俳優もまた、実生活においてはヒト癖もフタ癖もある、複雑に絡み合った心のヒダの持ち主でなければ、重層的な人間を演じることができません。
演じる、ということは嘘で固めて真実を描いてみせる、ということです。
事実を事実のままに見せても観客には何の感動も興奮も届けることはできないのです。
俳優がその真実を真実らしく演じてみせて、初めて観客の心に響いて真実に触れることができるのです。
セリフと演技で人生の真実を見せる、という作業は相当な力技が求められます。
たとえば本物の近親相姦の母と息子を本物だから、とAVに撮ってみせても観客はなんのことだかサッパリ分かりません。
近親相姦の不条理の世界を、母と息子の役者にそれなりのセリフと演技を与えてこそ「地獄花」の世界が極まるのです。
俳優は時には殺人鬼、刑事、慈善事業家、銀行家、あるいはホモセクシャルやレズビアンといった性癖の持ち主までも巧みに演じ分けなければなりません。
そのためには単に脚本や台本を読みこなす努力だけではなく、そうした人間の究極の世界を少なからずも体験しておく必要があります。
想像だけではリアルな世界を演じることができないからです。
俳優の醍醐味は、そうした人間の百面相の両極のウイングを演じることにあるのですが、問われるのは人間に対する理解力です。
浮気や不倫の一度や二度の経験を経ずして、そうした鬼気迫る演技の幅を広げることはかなわないのです。
私たちはプロレスの試合を見る時に、単純なドロップキックだけを繰り出す闘いに興奮することはありません。
人間の極限とも思える身体能力を堪能することで、プロレスに熱く燃えることができるのです。
俳優や役者に品行方正さを求めることは、プロレスで定番の空手チョップやニードロップ、四の字固めの単純な技だけで勝負をつけろ、というようなことです。
多彩な技の乱舞を期待するなら、その技を磨くための鍛練の日々も応援しなければなりません。
俳優でいえば豪快に遊び回ることです。そうした遊びの世界から俳優はさまざまな人間模様を学び、自分の役作りに生かしていくのです。
畏友のアンディ松本氏は勝新太郎のマネージャーを長く務めていました。
銀座のクラブに勝新が遊びに行く時は・・・