「蓮舫さまに期待すること、北朝鮮の核ミサイル実験を笑う」

 

高畑さんちの息子が不起訴処分となって釈放されました。

被害者との間の示談が済んで、とのことでございます。

高畑さまのお嘆きぶりをテレビで見ていた手前どもは、心からようござんした、と高畑さまに声援を送ったのでございます。

手前どもにも高畑さんちのバカ息子と同じ世代の息子がおります。

多くの日本の同じ年頃の息子を持つ家庭では、この度のことは他人ごとではない出来事でございました。

10代から20代にかけての男の子の精力の血気盛んさは、本人が持て余すほどに半端ないものでございます。

生涯で一番生命力が全身にみなぎっている季節の性欲は「生命」のたぎりでございます。

この時代の自分を振り返ってみると、それはもう嘘のように頭の中がスケベのことでパンパンに膨れ上がっていました。

1日10回ものオナニーをしてもまだ体は火照っていて、チ〇ポを呪ったほどでございます。

なにかのきっかけで火がつけば、いつ爆発してもおかしくないほどに四六時中ソレばっかり、を考えていました。

そうした自分の体の奥から沸騰してくる「性欲」との闘いは「青春」そのものです。

青春というと「爽やか」が代名詞のように言われますが、手前どもは自分の理性と葛藤する暗い時代でした。

かろうじて「理性」という一本の細い糸で持ちこたえているものの、青年であれば誰とて高畑さんちのバカ息子になる「一歩寸前」の崖っぷちを片足で歩いているのでございます。

こうした「性欲」は暴力的に開放されるケースは稀でございます。

人間の脳は身も心も一体になりたい、との対象を認識すると、より慈しみ愛おしく思う感情へと昇華するのです。

互いに求め合い、身も心も一体となって得るエクスタシーは何ものにも代え難き「法悦」となります。

しかし、青年たちは体の奥から闇雲に突き上げてくる「性欲」との闘いに疲弊する日々を強いられます。

青春は己との闘いの暗黒の日々であります。

闘いに疲れ果て「自らの邪悪な心」と決別するために「仏門に入る」道を選んだ青年がおりました。

20数年前のことでございます。

往来で袈裟を身にまとったお坊さんに声をかけられました。

まだ30代の若いお坊さんです。

お坊さんは手前どもに握手を求められました。

「私は若い頃の、性欲に翻弄される自分が嫌で嫌で仕方がありませんでした。なんと自分は汚い人間なんだ、とこの世から消え去ることさえ考えたものです。

このままコントロールできない性欲に振り回されていたら、やがては性犯罪者になってしまう、そんなことになったら両親や兄弟、親戚に迷惑をかける、ならば俗世と離れて仏門に入り生きようと、僧侶になりました。

が、監督のAVを見て”性”に対する考えが変わりました。明るく楽しく、人間として当たり前に性と向き合えばいいのだ、と悟ったのです。

仏門に入る前に監督の作品に出会っていたら、きっと自分は違った人生を歩んでいたように思います」

と熱く語り、去っていかれました。

「性欲が”悪”」との受け止めは「猥褻罪」が刑法に存在しているからです。

明治時代の日本には「性をタブー視する」という考えはありませんでした。

明治時代になって、行政府が「風紀」というものを持ち出して「性表現」に規制をかけたために「性欲=猥褻」という図式が刷り込まれることになったのです。

その昔の日本には、そもそも「変態性欲」という概念はありませんでした。

性欲は善であり、悪ではない、という当たり前の健全な認識を、明治以前の日本人は持っていました。

日本人には「性欲」に対するタブー意識はありませんでしたが、その代わりにモラルがありました。

夫のある女性が他の男性と関係を持つと、女性とその相手の男性は「姦通」の罪に問われて罰せられました。

今日においてもその名残りは、既婚者の婚外性交は「不倫」というカテゴリーに入れられることにみることができます。

高畑さんちのバカ息子の問題をテレビ番組が取り上げ、ある女性評論家は「こうした事件が起きる背景にはAVの普及がある」と申されました。

またぞろ「性を”悪”」と決めつける痴れ者の戯言でございます。

「秘すれば花」と、SNSが発達している今日も「性」を直視することなく、特別視していることにこそ問題があるのでございます。

好むと好まざるとにかかわらず「性」と真摯に向き合うべき時代に私たちは生きています。

AVは性犯罪の根源だ、などと古い葵の御紋を持ち出して憚らない女性評論家の存在こそ、罪悪です。

AVが表面的に禁止されている中国や韓国での目もあてられないほどの「性犯罪率」をみれば、いかにAVを敵視することが間違っているか、一目瞭然です。

世界に冠たるAV天国の日本では、性犯罪率は世界最小であることでも分かることですが、AVは欲望のはけ口としても使用され、その存在の意義が認められているのでございます。

SNSが普及し、青少年たちがあからさまなSEX映像に容易に触れることができる現代では「秘すれば花」などとの「美学」はなんの説得力も持ちません。

「性」とはなにか、に真正面から向き合うことが必要です。

食欲、睡眠とあわせて、人間を人間たらしめている本能である「性欲」を否定することは人間を否定することです。

食欲や睡眠と同じく、当たり前の欲望としてとらえることが求められるのです。

人間には他の動物と違い、「想像力」があります。

その「想像力」という力は人間の性を崇高なものへと昇華させています。

動物はホルモンが分泌する繁殖期にしか発情しません。

人間は想像力によって脳を刺激して活性化させ、いつでも性交を可能となさしめました。

性欲は相手と一体となりたい、という欲望ですが、脳の働きにより心も体も一体になることを求めるのです。

人間の脳は心と体が一体となった時、最高のエクスタシーを感じるようにできています。

青少年には、そうした人間の脳と性欲の相関性を大人が説いて教える必要があります。

いたずらに「性」を「青少年にとって悍ましいもの」と考え、忌避しているから駄目なのです。

青少年たちに正しい「性」意識を芽生えさせるためには大人たちはもっと性にタフであるべきです。

秘すれば花、などといって引きこもっていてはいけないのです。

手前どもの思春期の代用品はもっぱら「辞書」でした。

「膣」「乳房」「尻」「恥毛」「絶頂」「処女」「喪失」「初体験」といった文字を辞書で引いては凝視し、興奮しました。

どれだけ昭和の男どもは想像力がたくましかったのでしょう。

 

 

坂口杏里さまがAVにご出演されたことがメディアに取り上げられ、話題となっています。

総じて「転落した」との評価でございますが、なにを野暮なことを、でございます。

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