女優・岸本加世子さまのご母堂は身長が120センチほどしかありませんでした。
生まれたばかりの時、産婆さんが、抱いていたご母堂をうっかり地面に落としてしまい、そのせいで背中に障害をかかえることになって、成長が止まり「小人」になってしまわれたのです。
ついうっかり、などとはとても思えない悲劇でございましたが、加世子さまのご母堂は不運に屈することなく生きました。
結婚をして加世子さまを産んだのです。
ご母堂は日常生活を着物姿で通しました。将来大きくなった時、娘の加世子も着られるように、と着物の丈を20センチほど長くしたものを愛用しました。
必ずしも裕福ではなかった家庭ですから粗末な生地の安価なものです。
しかし、それらは加世子さまの宝物になりました。
後年、ご母堂が亡くなられた後、ある女性月刊誌の企画で毎月その着物のあれこれを自らお召しになられて、「母の着物」の連載に1年ほど登場したことがございます。
加世子さまのご母堂の生き甲斐は着物以上に、別のことがありました。
北島三郎さまです。サブちゃんの大ファンでした。
新宿コマ劇場で毎年恒例になっていた1カ月興行がはじまると、必ず3、4回は観に行きました。
観に行くだけでなく、楽屋の入り口で熱狂的ファンたちと一緒に、楽屋入りのお迎え、にも参加しました。
いつか120センチ足らずの「小柄」なご母堂の姿がサブちゃんの目にとまることになり、親しく交流する機会を得ました。
ご母堂はまだヨチヨチ歩きとなったばかりの加世子さまをサブちゃんの楽屋に連れて行き、一緒に写真を撮って欲しい、と頼みこんで加世子さまとサブちゃんの2ショット写真をものにしました。
加世子さまが芸能界デビューをして1年ほど経った頃です。
京都でお仕事があり、京都の街を歩いていると行く手に黒山の人だかりがありました。
何事かしらん、と覗いてみると人だかりの真ん中にサブちゃんがいました。
あっ、サブちゃんだ、と思いましたが、大人になってからは一面識もありません。
声をかけて挨拶することは憚られて、その場を立ち去ろうとしました。
その加世子さまをサブちゃんは目ざとく見つけられ、「おい、加世子!」と大きな声をかけてきました。
加世子さまは心底驚きました。どうしてサブちゃんが私の名前を知っているのだろう、とキツネにつままれたような気がしました。
「こっちにおいで」とサブちゃんに手招きをされるままに恐る恐る近づいていくと、サブちゃんは優しい笑顔を見せながら「知ってるよ、お前さんが1年前に芸能界デビューをしたことをお母さんから教えていただいていたよ、お前さんのデビュー写真も一緒に送ってくださっていたんだよ」と肩をポンポン、と、まるで古くからの知己のように叩くのでした。
サブちゃんは付き人に向かって「おい、カバンを持って来い」と声をかけました。
付き人から手渡されたカバンの中から一葉の写真を取り出してサブちゃんは加世子さまに見せました。
それはサブちゃんと新宿コマ劇場の楽屋裏で加世子さまが幼い時に一緒に撮った、あの写真でした。
「お前さんが芸能界にデビューしたと聞いて、いつか出会う時があったらこの写真を見せてやろう、と思ってな、肌身離さず持っていたんだよ」と語るサブちゃんの顔が仏様のように見え、感動の涙に霞みました。
ご母堂は56歳の若さで早逝しました。
遺言は「葬式には最初から最後まで、サブちゃんの”兄弟仁義”の歌を流して欲しい」でした。
加世子さんはご母堂の遺言を守って、”兄弟仁義”のあの歌を葬儀場に流しました。
すると信じられないことが起きました。
サブちゃんと奥様が喪服を着られて、姿を現されたのです。
なんの前触れもない、突然の出来事でした。
サブちゃんは加世子さまのご母堂の棺の前に額突き、棺の前に一枚の色紙を差し入れました。
その色紙には「天国までの一人旅、天まで届け”兄弟仁義”の歌よ」と書いてありました。
加世子さまは「お母ちゃん、よかったね」と涙を拭いながら空を見上げました。
空には「お母ちゃんそっくり」の顔の雲が浮かんでいて、ニッコリと幸せそうな微笑を見せていました。
こうしたファンとスターとの「心温まる交流」は芸能エンターテイメントの神髄といえるものです。
SMAPは解散を表明しましたが、100万人のファンクラブの会員へはハガキ1枚の通知だけでした。
年間4000円の会費を徴収し、25年間にわたって莫大な利益を吸い上げてきたのにもかかわらず、この恩知らずの行いでございます。
その他、グッズの購入や公演チケット販売などでファンはどれほどSMAPに貢いできたことでしょうか。
それなのに、ハガキ1枚、だけの”縁切り”の知らせでございます。
その辺のゴロツキホストでさえも、もう少し別れのエチケットがあろうというものでございます。
SMAP命、と人生を捧げてきた100万人のファンは…