「キンプリ騒動の真相」

 

女性AVアイドルのことは専門でございますが、今回は男性アイドルのことを書かせていただきます。AV男優ではありません。
 
ジャニーズ事務所のキンプリと、滝沢秀明さまのことでございます。
 
キンプリの3人はグループからの脱退と同時に、来年にはジャニーズ事務所からも去ることを表明されました。
 
また、それに先立ってジャニーズ事務所の副社長であり、新人発掘と育成を手掛けていた滝沢さまがジャニーズ事務所を去られたのでございます。
 
メディアはこのことを大きく報じましたが、実際のところの真相はいつものようにジャニーズ事務所に気遣い、群盲象をなでるごときになっています。
 
いささかジャニーズ事務所のジュリー社長と、関わりを過去に持ったことがある手前どもからすれば、あんな親の七光りの、妖怪メリーのアバズレ娘が社長を務めている会社で、まともな人間であればいつまでも副社長などをやっていられるワケがない、ということでございます。
 
忘れもしません、その昔、田原のトシちゃんが手前どもの専属女優の梶原恭子とSEXをイタしたことで、このことを記事にした日本一の出版社小学館にメリーが乗り込み「ウチのトシちゃんがオ〇ンコをヤったワケがない」とネジ込み、騒動となったことがありました。
 
小学館にとってはジャニーズ事務所はドル箱でございます。
 
出版している「小学一年生」からの小学生、中学生向けの雑誌の表紙には、人気のジャニーズアイドルを使っていました。
 
そのジャニーズ「さま、さま」にソッポを向かれては商売になりません。
 
その頃付き合いがあった週刊ポストの編集長に「たってのお願い」と頭を下げられ、当事者の梶原恭子を引きつれての「首実験」に参加した時です。
 
立会人の小学館の幹部連が見守る中で、日本の一流出版社の会議室で副社長のメリー、娘のジュリー、オ〇ンコ相手の当事者の田原俊彦さま、対する手前どもと、オ〇ンコヤリましたの梶原恭子が、長いテーブルを挟んで向かい合い、ヤッた、ヤらない、の侃侃諤諤の言い争いをはじめたのでございます。
 
が、時間が経っても双方とも譲らず、埒が明きません。と、副社長のメリーは娘のジュリーに目くばせをしました。合点しましたとばかりに立ち上がったジュリーは、部屋を出ていくと、すぐさまトシちゃんの親衛隊の女子を7~8人引きつれて戻ってきたのです。
 
戻ってきたといっても、礼儀をわきまえて静かに、ではありません。会議室の扉を開くと同時にジュリーが「皆、入っておいで」と掛け声をかけました。するとドタドタと、血相を変えた親衛隊が赤穂浪士の討入りのごとくに乱入してきたのです。
 
いずれも普通でない阿修羅の形相をしています。そして口々に手前どもの傍にいる梶原恭子に向かい「嘘つき」「アバズレ」「ドスケベ」の悪口雑言の限りを尽くしたのでした。
 
しんじられないような常識破りの禁じ手を使うのでありましょうか。手前どもは指図をしたメリー副社長に向かい「なんという人でなしのことをするんだ。そんな人間とはこれ以上、話し合いをしても無駄だ」と、席を蹴って梶原恭子を促し、会議室から外に出たのでした。
 
あの時のメリーとジュリー母娘の「この世のものとは思えない歪んだ醜顔」が今でも目に浮かびヘドの出る思いがします。
 
ああした「手段を選ばぬやり口」で、メリーはジャニーズのスキャンダルを封印し、ジャニーズ事務所を日本一のアイドルプロダクションに育て上げたのでしたが、娘のジュリーにも人を人と思わぬ増上慢なやり口が見事に引き継がれているのでありましょう。
 
滝沢秀明さまがジャニーさんへの恩返し、といくら頑張っても、社長のジュリーの能無しのワガママには、ほとほと嫌気がさし、我慢の限界となって退社に至ったに違いありません。
 
退社の後に残ったキンプリも、この「親の七光りの守銭奴」ジュリーの下では到底自分たちの世界進出の夢などは叶わないと、見限った故の退社でございました。
 
世界進出といっても、世界で活躍するためには先立つものが必要です。
 
BTSやKポップアイドルの世界進出を可能にせしめたのは、アメリカで湯水のように金を使いプロモートに励んだサムスンの創業者の令嬢の存在があったからです。
 
親の七光り以外に何もないジュリーに、キンプリの世界進出の夢を叶えようとする情熱も、投資への意欲もなかったのでした。
 
この夏に「世界進出」という名のデビューを果たしたグループ「Travis Japan」は、日本での知名度も活躍の実績もほとんどなく、それはただ「世界進出」という看板が欲しいだけのパフォーマンスに過ぎなかったのです。
 
キンプリには93万人のファン・クラブがあります。
 
”日本で活躍していれば第二の「嵐」として、いくらでもいい思いができるのに、わざわざリスクのある挑戦などバカのすること”が、親の七光りの守銭奴娘のジュリーの考えであったのでした。
 
「滝沢歌舞伎」でみられるように、滝沢秀明さまは故ジャニー喜多川さまのDNAを継ぐ、根っからのクリエイターでした。
 
当然のごとくその実力を世界で試してみたいと、またそうすることがジャニーさんの遺志を継ぐ、恩返しだと、情熱を燃やされていたのでした。
 
しかしながら艦隊司令長官のジュリーに世界を相手に戦う気が全くなくては、旗をおろさざるを得なかった、というのが真実でございます。
 
2000年、滝沢秀明さまがデビューして間もない頃でした。
 
先だって小欄でも触れさせていただきましたが、手前どもは横浜アリーナで開催される「力道山メモリアル・プロレス」のイベントのプロデュースを担当しておりました。
 
力道山は手前ども団塊の世代にとっては「英雄」でしたが、去る者は日々に疎しで、英雄、力道山といえども過去の人になりかけていたのです。
 
なんとしても、これまでのファンではない、新しいプロレスファンを獲得する必要がありました。
 
そこで考えたのが、その頃デビューして間もないタッキーに、アントニオ猪木と対戦してもらうことでした。
 
周囲は大反対でした。アイドルとアントニオ猪木とにプロレスの試合をさせたら、ただでさえプロレスは八百長だと思われているのに、ロクなことにならない、というのです。
 
が、手前どもはそうは考えませんでした。これから売り出そうというジャニーズジュニアの滝沢秀明さまがアントニオ猪木とリングで相まみえたら、共に優れたエンターテイナーであるのだからファンを納得させることができるプロレスのパフォーマンスを見せてくれるはずだ、と思ったのです。
 
頭の隅には、女性誌で滝沢秀明さまが語っていた「僕はプロレスの大ファンです」との言葉がありました。
 
モノは試しにと、早速ジャニーズ事務所に人をやって「アントニオ猪木との対戦」の交渉をしました。
 
反応は周囲の予想を裏切り、実に好意的なもので「本人が是非とも出場したいというのでお願いしたい」というものでした。
 
本人のたっての「プロレス愛」の希望を聞き入れたのでありましょうが、それを許可したジャニー喜多川さまの「慧眼」に「敵ながらアッパレ」と敬服したのでございます。
 
前日世田谷の新日の練習場で、簡単な打ち合わせ程度のリハーサルを行い、翌日の横浜アリーナでの本番に臨みました。
 
満員の観衆が見つめるリングの上で、タッキーはアントニオ猪木を相手にまさしく筋書のないプロレスの「蝶の世に舞い、蜂のように刺し」ファンを熱狂させたのです。
 
その華麗な立ち居振る舞いを見て、心から安堵しつつも、選んでよかったと溜飲を下げたのでございます。
 
この一件があって、タッキーの「舞い、刺す」異能の才能はNHKの知るところとなり、NHK大河の「義経」役に抜擢されたことは、いささか自負するところでございます。
 
まだ40を数えたばかりの滝沢さまの人生は、これからでございます。手前どもから見れば、可能性がいっぱいで、羨ましい程でございます。
 
これまでどれ程の耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできたのかと、同情を禁じ得ないのですが、才能は無限大でございます。
 
新たな土俵でのご活躍を期待するのですが、まかり間違ってバーニングの周防さまをお頼りにならぬように、とご忠告を申し上げます。
 
なんとなれば…

 

 

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