「妻だった人の死」

 

岸部シローさまが逝かれました。享年は手前どもと同じ71歳でございます。
 
彼の死を伝えるメディアの報道では本名の「岸部四郎」と呼ばれていましたが、彼と共に人生の歳月を重ねた、いわば伴走者ともいえる手前どもの世代にとっては元気で活躍なされていた「岸部シロー」の芸名がシックリくるのでございます。
 
その人生はまさに「波乱万丈」といえるものでした。
 
米国に在住していた1969年、当時絶大な人気を誇っていたグループサウンズ「ザ・タイガース」のメンバーに、兄の岸部一徳がいることから誘われて参加したのが芸能活動のはじまりでした。
 
最初はギター担当という名目の立場でしたが、ギターは全く弾くことができず、そのエアギターがファンにバレてタンバリンを手に舞台を務めるようになったというエピソードがあります。
 
あの頃の「ザ・タイガース」の人気を語るのに、現在では想像もできないような圧倒的人気で、例えて相応しい現代の人気スターがおりません。あえて言えば解散したSMAPと、嵐が合体したような、ものすごい人気がありました。
 
「ザ・タイガース」解散後は、78年にドラマ「西遊記」に沙悟浄役で出演しています。出演の夏目雅子さまに一目惚れをして「僕は1億円持っています」と口説いた話は「伝説」となっています。
 
プライベートでは71年に1歳年上のハーフ女性と結婚し、一男一女を授かりましたが、85年に離婚しています。その後、94年に14歳年下の小緒里さまと再婚、新妻はマネージャーとなって公私ともに岸部さまを支えましたが、07年に自宅で突然倒れ、43歳の若さで急死されたのです。
 
84年から日本テレビ系ワイドショー「ルックルックこんにちは」の司会を務められましたが、98年にサイドビジネスで不渡りを出して降板、同年、自己破産をなされて芸能界の第一線から消えました。
 
ご本人は「最初の頃のルックルックの出演料は一日10万円だった」と語られていますが最後の頃は年収1億円超と言われて、ロスでディスコを経営したり、ヘリコプターで旅客を運ぶ会社を設立し、役員を務めるなど、手広く事業を展開していましたが、趣味の骨董収集に金に糸目をつけずに熱中する浪費癖と、友人の保証人になったことが引き金となって自己破産に至ったのでございます。
 
その後、再起をかけて芸能界復帰へと頑張られましたが、03年には脳内出血で倒れ、視野狭窄の後遺症を患い、右目の視力が3分の1となりました。また、愛妻の小緒里さまに先立たれたことで病状は更に悪化した上に、パーキンソン病も患ったのです。
 
2013年12月27日に東京ドームで4万5千人を集めた「タイガース再結成公演」には、施設で大腿骨のリハビリ中でしたが、車椅子姿でサプライズ出演し、ビートルズの「イエスタデー」を披露しました。
 
舞台裏では「東京ドームは小さいな」とやって関係者を笑わせました。
 
最後のステージは14年11月21日、東京新橋のヤクルトホールで行われた「森本太郎とスーパースター再結成ライブ」に車椅子で駆けつけ、透き通ると言われた自慢の声で岸部シローさまなりに精いっぱい「ラレーニア」を披露されました。
 
そしてその後は入退院の闘病生活を繰り返され、遂に力尽きたのでした。
 
こうして岸部シローさまの絶頂と転落の人生を振り返ってみますとまるで我が事のように思え、一歩間違っていたら自分の運命だったと、言葉を失っています
 
関係者によれば、岸部さまはいつか必ずまた、再び、ともう一度芸能界で活躍される望みを持っていたとのことでございます。
 
テレビ番組で「俺を誰やと思ってんねん、元金持ちやぞ」との自虐ネタを披露されたり、著書「後ろ向き ~ 一週間に一日幸せならいい」では、無芸でもいい、いつも3番手を狙って芸能界で40年生きてきたという自らの人生論を綴られ、その豊かな人間味が人気を呼んでいました。
 
人生100年の時代です。同年代の菅さまがこの大変な時期に総理となられて日本を背負って行こうと命をかけられています。
 
71歳も、これからなのでございました。夢と希望に抱かれて逝かれた同世代のスター、岸部シローさま、早すぎの旅立ちでございます。合掌
 
 
 
 
いつものファミレスのドリンクコーナーで、女子店員さまが賢明に拭き掃除をなさっていました。
 
高校生のアルバイトと思しきお年頃です…

 

 

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