石原慎太郎さまが月刊誌に書かれておられました。
上皇后陛下となられた美智子さまの父親の正田英三郎氏とは一橋大学の先輩、後輩の仲でございました。
その一橋大学の同窓会である「如水会」の集まりの時のことでございます。
石原さまは正田英三郎氏と同じ理事をしておられました。
皇太子妃時代の美智子さまが何かの行事のときに風邪のために休まれたことがありました。
そこで石原さまは理事会の折に、正田さまに「妃殿下は風邪を召されたそうですけれど、いかがですか、その後は」と聞かれたそうです。
すると正田英三郎氏は「君、美智子が風邪をひいたのか」と問い返されたといいます。
「ご存じないのですか」と聞いたら「何も知らない、何も知らせてもらえないんだよ、君」と言い、「えらいところへ嫁にやっちゃったなあ」と嘆かれたといいます。(正論6月号、「令和」日本の困難なる道)
かくのごとき、皇室とは下々にとっては窺い知れない、いわば伏魔殿のような場所となってございます。
美智子上皇后陛下は、外国人記者たちからは「世界の王族、皇族の中でも一番素晴らしくて一番優雅だ」と絶賛された方でございます。
まるで奇跡のように皇室に、民間から降下なされて誕生した美智子妃殿下でございましたが、この伏魔殿に棲みつく古狸どものイジメにあって、ある時は拒食症を患い、ある時は言葉を失う失語症となった過去がございます。
この度、晴れて皇后陛下となられました雅子さまは、ハーバード大学から東京大学に学び、在学中に公務員上級試験という難関を突破、外務省に「かつてないほどに優秀である」と鳴り物入りで入られた稀有の存在でございます。
入省後は将来の外務省を背負って立つ逸材、との期待を担って、オックスフォード大学へ入学を果たした「日本の英知の結晶」のような人物でございました。
それほどまでに優れた才能の持ち主が皇室に入られてしばらくしてから、心に病を発症され、今日まで16年の長きにわたる闘病の日々を送られています。
我が国民の象徴たる天皇陛下をいだく皇室は、なんたる人でなしのブラックボックスであるか、と愕然とするのでございます。
ケネディは、大統領に就任のときの演説で、「合衆国に何をしてもらえるかではなく、何ができるかを考えて欲しい」と米国民に語りかけました。
「令和」の時代を迎えて、私たち日本国民は天皇陛下、皇后陛下に「何をしていただくのか」を望むのではなく、いかに「お支えするか」を考えなければなりません。
それこそが、ただひたすら国民の安寧を祈られている象徴天皇を持つ日本国民の役割でございます。
もはや餓鬼のごとくに、「してもらう」ことだけを乞い願う情けなさには別れを告げ、「令和」の新時代には、私たちに相応しい天皇像を築きあげていくことが求められているのでございます。
また、天皇皇后両陛下にあられては、開かれた皇室での幸多き日々を過ごされることをお祈り申し上げます。
身なりには気を付けているつもりですが、たいがいの通行人の方には「ホームレス氏」と思われているようです。
頭に被ったニット帽がいけないのか知れませんが、髪の毛が「カタい」ために、ニット帽を被ってカバーしています。
いちいち整髪料をつけるのが面倒くさいのです。
メディアの取材やしかるべき人間と会う際にはヘアクリームを髪に塗ることにしていますが、それ以外の日常生活では洗いざらしの髪のまま、ニット帽で誤魔化しています。
そうした風体からか、街で声をかけられることは滅多にありません。
時々は「監督ですか」とのお声を賜ることがございますが、そうしたケースは月に一度あるかないか、でございます。
手前どもを確認しても、なにか災いに巻き込まれそうな予感を覚えられ、躊躇なされておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
そこにいるだけで避けて通られる存在、となっての今日この頃でございますが、ごくたまに、通りすがりの人に道を尋ねられることがあります。
他の人はどうかはわかりませんが、この道を尋ねられることが実に嬉しいのでございます。
よくぞ、私みたいな者に声をかけてくださった、と喜びはひとしおでございます。
道を尋ねられるのは決まってご婦人でございます。
先日、東南アジアからの女子留学生に道を尋ねられたことは小欄でご紹介しましたが、4日前は、日本人の女性でございました。
齢の頃は40歳を過ぎたばかりの品のいいご婦人でございます。
メガネをかけておいででした。見るからに”インテリ”でございます。
こうしたインテリ女性は、人の真贋を見抜く目を持っていらっしゃるのでございます。
手前どもを見て、この男なら安心して道を訊くことができる、と見抜かれたのでございました。
ご婦人のお尋ねの場所は、地下鉄の駅でございました。
「この道をまっすぐ行きますと信号機が3つあります。その3つ目の信号機のところに、お探しの地下鉄の駅があります」とお教えいたしました。
ビデオカメラも回っていないのに、これ以上の礼儀正しさはないような言葉遣いを心掛けました。
ご婦人は「わかりました、ありがとうございます」とお礼を申されました。
そしてその場を立ち去られようとした時でございます。ご婦人の表情に「アッ」とした、驚きと申しましょうか、戸惑い、の表情が浮かんだのでございます。
ご婦人の頭の中に、手前どもを見て、何が灯ったのでありましょうか。
その驚きぶりの大きさに、手前どもはいささかの狼狽えを覚えたものでございます。
ご婦人のお顔がみるみるうちに紅潮なされていくのがわかりました。
何ゆえの紅潮かは見当がつきましたが、「そうです、私なんです」などと不用意な言葉を吐かぬよう、自制しました。
一歩、二歩とご婦人は後退りをなさいました。何も後退りをなさらなくとも、と抵抗を感じましたが、よほど感受性が豊かでいらっしゃるのでしょう、ここでオ〇ンコ、などを口にしたら卒倒するに違いない、などとロクデナシなことを考えたロクデナシでございます。
相手が驚けば驚くほど、もっと驚かせてみたいというエロ事師の性(さが)が目を醒ましておりました。
ご婦人は「失礼します」と軽く会釈をなされて、地下鉄の駅のある方向に向かい、去って行かれました。
その背中は「クワバラ、クワバラ」と言っているかのように揺れていました。
数歩歩いて振り返ると、ご婦人の方も立ち止まられてコチラを見ていました。
見ている、というより、様子を窺っている気配でした。場合によっては110番をしようかしら、との葛藤をなされているようにも窺えたのです。
インテリ女性は詮索好きなのでございました。不審者を見たら放っておけない正義感の持ち主なのでございましょう。
まさしく「クワバラ、クワバラ」でございます。
こうしてご婦人のお姿を見続けていたら「キャー」などとあらぬ声を上げられそうな恐怖に襲われました。
親切が仇となる、とはこのことかもしれません。
君子、ならぬ、エロ事師危うきに近寄らず、でございます。
踵を返していつもの駅へと向かってただひたすらに歩いたのでございます。
住まいの近くに大きな病院があります。
かの田中角栄さまが入院していた、有名な病院でございます。
その前は公園になっています。近くを通りかかりましたら、公園のベンチに腰かけて煙草を吸っている中年の男性がいました。
パジャマ姿で手にはダイダイ色のビニール製のリングがはめられていました。入院患者専用の識別票です。
中年の男性はどんな病気かは存じませんが、この病院の入院患者であることは明らかです。
中年の男性の目は虚ろに宙を泳いでいました。働き盛りで女房子供もいる身なのでしょう。それが突然の病となって途方に暮れているように、手前どもには見えたのです。
きっと背負いきれないものを背負われているのでしょう。彼の心の苦しみが痛いほどわかる気がしました。
「大変ですね」と思わず言葉をかけそうになりました。7年ほど前に「余命1週間」を宣告されて入院生活を経験した身では、とても他人事に思えなかったのです。
「大変ですね」は余計なお節介でございます。「俺の人生の何をオマエは知っているのだ」とお叱りを受けそうでございます。
が、声をかけずにはおれない気持ちを押しとどめながら、その場を足早に立ち去ったのでございました。
入院生活のことを思い出していました。
手術を受け「余命1週間」の状況から脱出すると、病床で考えることは女房子供のことでした…
この続きは「まぐまぐ!」でお読みください…