「年の暮れの新宿の夜」

メリークリスマス!あとは大晦日を待つだけとなって、今年も終盤を迎えております。

年のはじめは今年一年無事に過ごすことができるのだろうか、といささか心許ない思いでおりましたが、なんとか一年をつつがなく終えることができそうなのは、何よりでございます。

手前どもも、それなりの年を数えておりますので、知人友人の訃報に接することが多くなりました。

中でも今年は、2人の知人との別れが忘れられません。

一人は宇宙企画、英知出版のオーナーであった山崎氏です。

彼とはビニ本時代からの付き合いです。神田神保町にあった手前どもの事務所に、刷り上がったばかりの「見本」や注文のビニ本を自ら納品に来ていました。

「神田草艶」と名付けられた彼のビニ本会社のビニ本は、製版技術が優れていて仕上がりが極上なところから、人気となり、ヒット作品を次々と出していました。

その後、警察の手入れが厳しくなると、いち早くビニ本から撤退し、「宇宙企画」という「ビデオメーカー」を旗揚げして、アダルトビデオ業界での押しも押されぬ地位を確立したのです。

が、英知出版の出版物が当局から「有害図書」の指定を受けるに及んで、コンビニから取り扱い停止の処分を受けることとなり、倒産のやむなきに至ったのでした。

彼は無一文となり、個人保証をした債権者から追われる日々となったのですが、それでも再起を諦めず、「もう一度天下をとってやる」と闘志を燃やしていました。

が、現実は厳しく、動き回る電車賃にも事欠くありさまでした。

風体も、かつての辺りを払うような鬼気迫る気配は消え、長く伸ばした髪と着古した服の姿を見て、古くからの共通の友人は「どこのホームレスだろう」と見間違ったといいます。

それでも山崎氏は再起を夢見て、「一日3人の新しい人間と出会うこと」を自分に義務付けていました。

手前どもに誇らしげな表情で「一年間に僕は1000人と会っているんだよ」と語っていた様子を、昨日のことのように思い出します。

惜しむらくは、彼は純粋な経営者で、モノづくりにはかかわっていなかったことでした。

モノをつくる分野での可能性を追求する道があったなら、非凡な才能に恵まれた男でしたから、いくらでも復活の道を探れたのではなかったかと思うのです。

日本は一度倒産してしまうと、ブラックリストとなって、復活は容易なことではできなくなります。

もし敗者復活戦の道が許されていたなら、山崎氏は事業を立ち上げて、時価総額2兆円を噂されるDMMを凌ぐような大企業をモノにしていたに違いありません。

手前どもに資金の余力があったなら、いの一番に資金を提供して活躍を期待したい逸材でした。

山崎氏の卓越した才能は、日本の写真製版技術に革命的な影響を与えています。

大手印刷会社の製版担当者に駄目出しを続けて、今日の日本の印刷技術の向上に大いなる寄与をしました。

もし山崎氏の存在がなければ、日本を代表する大手印刷会社があれほどの美しいグラビア印刷の写真集の仕上がりをモノにできたか疑問でございます。

たかがビニ本出身者が、と侮られる向きがございましょうが、女性の写真印刷の美しさに命をかけた男がいればこその、今日の日本のグラビア印刷の進歩なのでございます。

山崎氏が逝った後、偲ぶ会が開かれました。

手前どもはその時期生憎中国に出張しており、参加することはできませんでしたが、彼を慕う80名の人たちが集まったといいます。

多くは彼のもとで働いていた社員たちでした。

気に入らなければ会議中のテーブルをひっくり返して大暴れをする「暴君」でしたが、その経営センスと人柄に魅せられて、没後もそれだけの多くの元社員たちが集まったことは何よりでした。

泉下で、向こう気が強く皮肉屋の山崎氏は「生きている間に小銭でいいからよこしやがれというんだよ」と苦笑いをしていたのではないでしょうか。

享年70、死因は大腸癌。倒産後、妻子と別れて一人暮らしを続けていました。

手前どもと同学年でございます。なんとも惜しまれる男の死でございます。

もう一人はK氏でございます。享年66歳、彼の死を知ったのは2週間前でございます。

K氏は手前どもが設立したダイヤモンド映像の初期の重役の立場にありました。

もとは国鉄の職員で、郷ひろみさまのお父さまと同じく東京駅で働いておりました。

お父さまが東京駅の助役を退かれて「郷ひろみ音楽出版事務所」を旗揚げされた時は、その事務所の専務の任に就かれました。

手前どもとは共通の知人を通して知り合い、芸能界に人脈があるというところから設立したばかりの「ダイヤモンド映像」に重役として迎え入れたのでございます。

その頃は「郷ひろみ音楽事務所」も…

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