「”浣腸”の誘惑」

麻原ご一行さまの残りのお歴々の死刑囚の方が、刑を執行され、旅立たれました。

麻原尊師が逝って、いつ自分の番が回ってくるのかと眠れない日が続いたことでしょうが、ようやく覚悟の日を迎えることができたのは何よりです。

どうせ首をくくられる身ならば、もっと早く冥土に送ってやるのが武士の情けではなかったかと考えるのですが、西日本の豪雨による災害で多くの死者、行方不明者が出たことでそうはいかなかったようです。

後を追った6人は二度殺されたような地獄を見る日々を味わったのも、これまた運命というものなのでしょう。

が、ホッとしている本人たちと比べて、運命などとはとても諦めきれずに、今尚悲しみの日々を送られている被害者、家族の皆さまにとって、安息の日は永遠に来ないのでございます。

本来ならば死刑囚となって死刑台の彼方に露と消える運命だった、地下鉄サリン散布の実行犯、林郁夫は、サリン散布の実行犯であることを捜査側が知らない段階で告白した点を考慮され、検察が死刑ではなく無期懲役を求刑し、一審で「無期懲役」が確定しています。

その林郁夫は、自分が地下鉄サリン事件で殺してしまった被害者に対し、「どうして死ぬのか、何のために死ぬのか、何も分からないままに被害者は死んでしまった。本当に無念だったろうな、と。殺された人に”慈愛”だと思ってやったことが実際は、無限の縁によって果てしない悲しみを広げてしまったんです…。本当に恥しい」と証言台で語り、肩を震わせ泣き崩れました。

彼が思わず吐露した「恥しい」の言葉を被害者はどう受け止めたでしょうか。

いくら悔い改められても許せない相手ですが、せめてものなぐさめとなったのではないでしょうか。

その林郁夫は獄中で自殺未遂を図っています。慶応義塾大学医学部出身の心臓外科医であったスーパーエリートの無期懲役囚人への無残な転落は、オウム真理教のカルト犯罪の狂気を象徴しています。

この度の死刑執行に関してまたぞろ左翼勢力から「そこまで急いで、かつての幹部をまとめて処刑する必要があったのか」との批判の声が上がっています。

坂本弁護士一家殺害事件から約30年、地下鉄サリン事件から23年、死刑の確定判決から10年も経ているのに「そこまで急ぐ必要がなかった」と批判する勢力の時間の感覚とはいかなるものなのでしょう。

死刑が確定した人間を、ただいたずらに獄に留め置き、殺すぞ、殺すぞと日々苛むが余程、非人道的なのではないでしょうか。

中には「今後のカルト問題やテロ対策のための研究対象や生き証人として活用した方が社会にとってはるかに有意義だ」と死刑執行に反対の論理を展開する者もいました。

死刑囚をモルモットとして調査研究に活用する、などとはいかなる人権意識の持ち主なのでしょう。

本人たちが犯した重大な殺人の罪を、自らの命でもって償わせること以外のことを死刑囚に強いることは、それこそ人権侵害というものでしょう。

「なんでも反対」の反政府勢力の人たちは、なんのかんのといって死刑執行を先延ばしにしようとして理屈をこねまわしているのです。

中には上川陽子法務大臣を「殺人狂」呼ばわりする者までいます。

手前どもは現行法下における「死刑執行」に賛成です。

上川陽子法務大臣は、裁判官が自らの法の良心に基づいて下した「死刑」という判決を実行するように命令を下した「法の番人」です。

その上川大臣を批判したり、判決を下した裁判官を批判することは、私たちの民主主義国家の「法による統治」という制度を否定するものです。

法律にのっとって厳粛に判決を下した裁判官や、その刑を執行する法の番人たちを貶めることは、自分たちの社会の成り立ち自体を貶めることになりかねないということを自覚してほしいものです。

TBSサンモニのメタボ女性コメンテーターが「公開処刑のように感じた。中には加害者であり被害者である人間もいた」とまで述べました。

この不感症な言葉を被害者はどのように受け止めたでしょうか。

言論の自由の名のもとに、言葉の強姦以外のなにものでもないでしょう。ふしだらな言葉を使うのはベッドの中だけにしていただきたいものです。

人間は強度のストレスを長期間受け続けると、たとえば癌などの重篤な病気を発症する、といいます。

しかしながら、この度死刑を執行された13人の死刑囚の皆さまの中で、癌になったなどという人間はいません。

23年間も獄中生活を強いられて、この10年は死刑が確定して、いつあの世に送られるかと限界に近いまでのプレッシャーを受けていたはずなのに、不思議でございます。

日本人の2人に1人は癌にかかるといわれています。遺伝的要素や生活習慣からくるものもあるでしょうが、あれほどの極限生活を送っていて、13人の内1人や2人は癌を患ったことがある人間がいてもおかしくないはずでございますのに、不可解でございます。

しかしながら、手前どもには理解できるのでございます。彼らオウムの13人は、自らの死刑という運命に、不満を感じていることはなかったのではないか、寧ろ罪のない人々を死に至らしめたことで自分の死刑という形を従容として受け入れていたのではなかったのか、と考えるのです。

死刑にされることによって救われる、との「心の領域」に到達していたような気がするのです。

手前どもは恥しながらこれまで何度か留置場や拘置所暮らしを経験しております。

その折々に同じ房で殺人を犯した殺人犯と同房生活を送ることがございました。

ある者は奥方を放火で殺したり、ある者は喧嘩相手を殴り殺したり、といった殺人犯でございます。

彼等を観察していますと、悶々として罪を悔い、殺してしまった人間に詫びて苦しむ、といった姿を見せることはないのでした。

やってしまったことは仕方がない、かくなる上は法の裁きを受けて刑に服する、といった潔さが見受けられたのでございます。

悶々として、どうして逮捕されてしまったのだろう、と房の中で往生際悪く歯ぎしりをしているのは「自分の体に注射をして何が悪い」という覚醒剤犯罪者か、手前どものような「被害者が見当たらない」エロ事師だけでございます。

殺人と言わず、罪を犯してお縄頂戴になっている者たちは、被害者がいるだけに居直ることが叶わず、諦めも早いのでございます。

犯罪者は裁かれることで、いつまでも自ら犯した罪の重さに苛むことから救われることがあるのでございます。

自分が犯した罪によって迷惑をかけ被害を受けた人たちに対して、刑に服することで許される、と自分の魂を救済できるのです。

麻原ご一行さまの死刑の執行も、ご本人たちからすれば、ようやく安息の刻を迎えることができる、とホッと胸を撫でおろしておられたのではなかったか、と推察致しております。合掌。

CO2排出によって北極圏のオゾン層は破壊の脅威に曝されています。

もうこれ以上地球は…

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