「貴乃花親方と母親紀子さまの愛憎の物語」

横田めぐみさんが拉致されたのは13歳の時でした。

同じ13歳で北朝鮮に海を渡って行った一人の少年がいました。

寺越武志さんです。

武志さんは13才の中学生だった1963年5月11日、叔父の寺越昭二さん(当時36歳)と寺越外雄さん(当時24歳)とともに、能登半島沖へ漁に出たまま行方不明になりました。

翌日、沖合7kmに、漁船だけが漂流しているのが発見されました。

漁船には他の船に衝突されてできたような損傷があり、塗料も付着していました。

地元漁協をはじめとして海上保安庁の必死の捜索が行われましたが、その後3人の消息をつかむことができませんでした。

武志さんの父親の寺越太左エ門さん(当時42歳)と、武志さんの母親の寺越友枝さん(当時32歳)はそれでも諦めきれずに、朝早くから船を海に出して日が暮れるまで武志さんの姿を探しました。

しかし、その消息は、ようとしてつかむことができなかったのです。

武志さんは、その後戸籍上では「死亡」との扱いをされました。

一人息子を失った父と母は、失意のうちに嘆き悲しむ日々を送ったのです。

それでも諦めきれない父と母は、一日に必ず一度は浜に出て、遠く日本海の海の彼方を見つめ続ける日が続いたのです。

そんな両親のもとへ奇跡のような便りが届きました。

消息不明となってから24年経った1987年1月22日のことです。

武志さんの父の太左エ門さんの一番下の弟の外雄さんから、息子の武志さんも自分も無事で、北朝鮮で生活している、との手紙が届いたのです。

父親の太左エ門さんと母親の友枝さんは死んだ筈の一人息子の武志さんが生きていることを知って欣喜雀躍しました。

すっかり諦めていた我が息子が生きていたなんて、と天にも昇るような気持ちになったのです。

すぐ、息子のいる北朝鮮に行きたい、と思いましたが、外雄さんからは「会いに来る時期はこちらから連絡するから、それまでは手紙のやり取りにして欲しい」との連絡がきました。

それからしばらくして、外雄さんから、「北朝鮮に来て欲しい」との連絡が入り、ようやく父と母は我が子の待つ北朝鮮へ旅立つことができたのです。

そして北朝鮮の平壌で、夢にまで見た最愛の息子と再会を果たすことができたのでした。

20数年ぶりに再会した息子は立派に大人になって北朝鮮の女性と結婚し、孫にあたる男の子まで誕生していました。

武志さんは北朝鮮の労働委員会に所属し、選ばれたエリートコースを歩んでいました。

朝鮮語をよどみなく話す息子の姿を見て、父と母は生き別れた歳月の長さを感じつつも、北朝鮮の地で逞しく生きていることにホッと胸を撫でおろしたのです。

気がかりだったのは父親の太左エ門さんのすぐ下の昭二さんの行方でした。

再会した下の弟の外雄さんと息子の武志さんに尋ねると、自分たちは船で遭難しているところを北朝鮮の漁船に助けられてこの国に来た。昭二さんとは北朝鮮での生活をはじめてから5年後の1968年に皆でベッドで酒盛りをした、と答えるのみでした。

太左エ門さんと友枝さんの両親は「北朝鮮の漁船に助けられた後に、どうしてお前は日本に帰りたいと北朝鮮の当局に申し出なかったのか」と問い詰めましたが、「命を救ってくれた北朝鮮に恩返しをしたいと思い、自分の意志でとどまった」と口を濁すのでした。

両親は他になにか隠されている真実があるのでは、と考えましたが、それ以上問い詰めて武志さんに不都合な事態が招くことを恐れ、この話題はそこでやめにしたのです。

1997年7月1日、北朝鮮から帰国した武志さんの両親が手続きをして金沢市を本籍として戸籍を回復しました。

以後、太左エ門さんと友枝さんの夫婦は、息子とその家族に会うために数カ月に一度の割合いで、交互に訪朝するようになりました。

父親の太左エ門さんは80歳になった2001年7月に訪朝し、そのまま北朝鮮にとどまり、武志さん一家と平壌市内で生活する道を選びました。

40年近く離れて生活してきて、最愛の息子と生活する余生を選んだ父でした。

2002年10月30日、武志さんは朝鮮労働党員及び労働団体の代表団副団長として来日し、故郷の石川県も訪れ、先祖の墓参りをしました。

死ぬまで武志さんの生還を信じていた祖母の墓の前で、おばあちゃん子だった武志さんは額ずき、涙をぬぐったのです。

この来日は、拉致被害者5人が帰国する12日前でしたが、日本政府関係者の出迎えはありませんでした。

武志さん自身が「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と拉致疑惑を否定したために、日本政府が認定する「拉致被害者」には含まれていなかったからです。

母親が武志さんが日本へ帰国するに際して「お前は日本人なんだから日本のパスポートを持つべきだ」と言ったところ、「私は朝鮮民主主義人民共和国の人間です。金正日将軍様の配慮で何不自由なく暮らしています」と、日本のパスポートを所持することを頑として拒否したのでした。

武志さんと一緒に「遭難」して助けられた寺越外雄さんは55歳で北朝鮮の亀城で病気のため亡くなりました。

また一人息子と暮らして余生を過ごした父親の太左エ門さんも、息子の武志さんの平壌のマンションの自宅で、86歳で死去しています。

武志さんは現在北朝鮮政府の団体に属し、幹部として部下200名を束ねる要職に就いています。

一人息子は結婚し、孫にも恵まれた武志さんでしたが、その一人息子が数年前、日本から届けられた品物を市場に横流しをした罪で捕らえられ、行方不明になったままです。

武志さんの給料は北朝鮮のお金で月額4000ウォンです。(日本円で500円相当)

このお金で武志さんは、妻と、息子の嫁と子供を養う生活を送っています。

この数年、友枝さんは体調を崩して入退院を繰り返し、北朝鮮に行くことができないままに過ごしました。

その間、武志さんからは、いつ北朝鮮にくるのか、との矢のような催促が何度も届きました。

友枝さんは息子の武志さんが北朝鮮に来るように、と促している意味がよく分かっていました。

経済的に困窮しているから、助けて欲しいと言ってきているのです。

しかし86歳になった友枝さんには余裕がありません。

80歳までは、なんとかビル掃除の仕事やまかないの仕事をしながら細々と暮らすことができ、武志さんにも品物や仕送りができていましたが、今ではその余力が全くないのです。

それでも武志さんの催促は止むことがありませんでした。

手持ちのお金がないからなんともならない、と連絡をすると「親父の年金があるだろう、それでなんとかして欲しい」と頼んでくる始末でした。

ある時、友枝さんは手紙で「お前にとっての私は何なのか?」と問いかけたことがありました。

すると武志さんから返ってきた手紙には、「俺が一番大切なのは女房だ。その次は息子でその次は孫だ。お袋は4番目だ」と書いてありました。

息子の容赦ない言葉に友枝さんは打ちのめされ、返す言葉が見つかりませんでした。

しかし、友枝さんは、息子が愛おしくてなりませんでした。

息子が異国の空の下で結婚し、育んだ家庭と家族を命がけで愛している気持ちが、愛おしく思われてなりませんでした。

なんと言われようと、自分の腹を痛めて産んだたった一人の息子でした。

たとえ4番目と言われようと、憎かろうはずがありませんでした。ただ、息子の家族の貧しい生活が、なんとも切なく思われました。

86歳になって病気がちの友枝さんは、息子の武志さんと、もうこの世で会うことはないと諦めていました。

友枝さんは、武志さんから届いた手紙の中に入っていた、武志さんの写真が気がかりでした。

今までになくやせ細っていたからです。北朝鮮の食料事情が悪くなっていることは武志さんの口吻や手紙の内容でなんとなく察していました。

なんとか自分の足で歩けるうちに、もう一度北朝鮮に渡り、最愛の息子の顔を見たい、と、武志さんの好物のインスタントラーメンなどの荷づくりに忙しい友枝さんなのです。

友枝さんは、数年前、武志さんと最後に分かれた前の日の夜、2人で交わした言葉を忘れることができません。

それは北朝鮮がこれから先、米国や韓国、日本と本気で戦争を起こす気があるのだろうか、と友枝さんが武志さんに尋ねた時でした。

武志さんはジッと空を睨んで言いました。「北朝鮮は失うものは何もない。死ぬか生きるかでやるかもしれない」、と。

その表情は、心優しい武志さんが今まで一度も友枝さんに見せたことのない、人が変わったと思えるほどに険しいものでした。

友枝さんは、年が明けるまでには何とか息子とその家族が待つ、最後の北朝鮮への旅に出たいと願っています。

日本の警察当局は武志さんらの「沖合いで北朝鮮の漁船に助けられた」という証言を全く信用していません。

北朝鮮にいる立場で、なんらかの事情で言わされていると推測しているのです。

わずか7kmの沖合いで漂流した漁船が見つかったことから、北朝鮮の工作船によって発見されて口封じのために拉致されたのではないか、との見方をしています。

ただ、2002年の来日時に武志さん本人が拉致を否定していることから、拉致被害者として認定していないだけなのです。

2013年5月17日、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会会長と寺越昭二さんの親族が、拉致担当大臣に「寺越事件に関する要望書」を提出。北朝鮮による拉致事件として真相究明を要請しました。

担当大臣は「安倍内閣として政府の拉致認定の有無にかかわらず、全員救出する方針だ。その中に寺越事件も含まれる」と語っています。

北朝鮮の横暴によって54年間もの間、息子とその家族と引き裂かれたままになっている母親友枝さんの悲しい物語は、今も尚、続いています。

私たちは同じ日本人でありながら今日まで…

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