「たじろぐなニッポン、370年の懲役とトランプ大統領への思い」

トランプ米国新大統領の一挙手一投足に世界が息を飲んで見守っている感があります。

何を今更、でございます。

アメリカさまお願いします、のバター犬根性が抜けきれないからの動揺でございます。

アメリカ・ファースト、であるのはなにもトランプさまにはじまったことではございません。

歴代アメリカ大統領は、皆、アメリカ・ファーストで大統領職をまっとうしてきたのでございます。,

アメリカ大統領だけが自国を一番に最優先してきたわけではありません。

世界のどんな国々のトップも、自分の国の利益を最優先してきたことは言うまでもないことです。

それは何も、国と国との問題に限らず、でございます。

人間それぞれが、自分のことを、いの一番に大事に考えて行動していることは当たり前のことなのです。

お先にどうぞ、と順番を譲っているのは死刑囚ぐらいのものでございましょう。

日米が友好国となりましたが、太平洋戦争で直接米国と戦った世代では70年を経た今日においても、心の中のどこかに、アメリカに対する釈然としない秘めたる思いを持っておるのでございます。

亡き父親も生前「今に見ていろ、一泡吹かせてやる」と酒に酔うと、鬼畜米英時代の消えぬ怨念をたぎらせていたものです。

一年二カ月に及ぶ中国大陸での兵隊生活でどんな闇を見てきたのか、定かではありませんが、復員後は国鉄の機関士の仕事に戻らず、傘修理の行商人となったのでございます。

人が変わったように無口になった、と母親が言っておりました。が、父親は、戦争での体験を死ぬまで語ることはありませんでした。

ただ、プロレスのテレビ中継を見て、力道山がブラッシーやデストロイヤーを空手チョップでなぎ倒している姿を見て「ガンバレ、やっちまえ」と顔を真っ赤にして応援していた姿が鮮明に記憶に残っています。

五人兄弟のうち三人の弟が戦死し、戦場では多くの戦友が散っていった姿を目撃した父親にとって、終戦になったからといって、ハイそうですか、と全てを水に流してアメリカ人と手を握るという気持ちにはなれなかったのでありましょう。

弟の一人は飢餓の島といわれたガダルカナルで戦死しています。

弟の仇討ちをしないで、どのツラさげてアメリカと仲良くなれる、との思いであったに違いありません。

母親のたった一人の弟も台湾で1945年1月2日に特攻により戦死しています。

戦争さえなければ、父親が国鉄を辞めて傘修理の行商人という、その日暮らしの商売に手を染めることはありませんでした。

食うや食わずの貧乏生活の果てに、父親は働く気を失い、昼は競輪場に通い、夜は飲んだくれるという日々を送るようになりました。

父親に代わって母親が五人家族の家計を支えるために、朝5時から近くの銭湯の掃除に出かけ、昼は旅館のこれまた掃除、夜はおでん屋での仲居の仕事をかけもって、寝る間も惜しんで働きました。

子供心に、こんな貧しい生活をしなければならないのはアメリカのせいだ、との敵愾心が芽生えました。

父親と母親は中学三年の時に離婚しました。

父親の稼ぎが少ないことで夫婦喧嘩が絶えず、その夫婦喧嘩を止めようとして、手前どもが包丁を持って父親に向かっていったことが引き金となったのです。

高校を卒業して上京し、水商売からセールスマン、と仕事を転々としました。

東京の街でアメリカ人を見ると理由もなく「この野郎」と戦闘意欲を燃やす自分がいました。

セールスマン時代、4歳年上の先輩に、戦争で父親を亡くした男がいました。

六本木に飲みに行った夜、先輩と道を歩いていると、向こうから3人の制服を着たGIが歩いてきたのです。

すると先輩の男は因縁をつけて、内一人のアメリカ人GIの男に殴りかかっていったのです。

GIは身長180センチはあろうかと思われる筋肉隆々とした大男です。

先輩の方も日本人にしては大柄で、これまた180センチ近くはありました。

突然標的にされたアメリカ人のGIは3、4発、たて続けに顔面にパンチを喰らって、その場にうずくまりました。

先輩はそのうずくまったGIの顔面を容赦なく足蹴りにしたのです。

ガシャッ、という嫌な音がしました。

見るとGIの鼻が潰れて、血が吹き出し、アスファルトの地面を赤く染めていました。

先輩は「逃げろ」と叫んで、その場から全力で走り去りました。

唖然とする2人のGIの視線を背中に受けながら、手前どもも先輩の後を追って懸命に走りました。

1キロほど走って後ろを確認すると、誰も追ってくる様子はありませんでした。

先輩は拳を撫でながら「アメ公を見ると我慢ができなくなって、ついいつも喧嘩を吹っかけてしまうんだ、先手必勝で先に殴って逃げる、というパターンなんだがよ」と赤く腫れ上がった握り拳を見せてニヤリと不敵な笑みを浮かべました。

その時、何故そうしたアメリカ人のGIに一方的に殴り掛かる無鉄砲を働くのか、の理由を知ったのです。

先輩が生まれて間もない時に、先輩の父親は徴兵されました。

そしてフィリピンに趣き、そこで終戦を迎える前に戦死したのでした。

先輩には5歳と2歳年上の姉が2人いました。

未亡人となった母親は、幼な児3人を抱えて必死に働いて子供たちを育てたといいます。

が、過労がたたって、先輩が7歳の時、突然死をしました。

両親を失った3人の子供たちは親戚に引き取られましたが、先輩は素行が悪く、持て余した親戚に施設に預けられたといいます。

中学を卒業すると同時に施設を出た先輩は、新聞発売店に配達夫として勤め、夜間の定時制高校を卒業しました。

その後、実力だけで勝負できるという環境が気に入って、セールスマンの仕事に就いたのでした。

別の時、北千住で先輩と一緒にいる時に、アメリカ人のGIとすれ違うことがありました。

また先輩の「暴走」がはじまりはしないか、とドキドキしましたが、まだ陽の高い夕暮れ時でしたので、先輩も「凶行」に走ることはありませんでした。

先輩の様子をコッソリ窺うと、顔面のこめかみが浮き上がって興奮して、今にも爆発しそうな気配でした。

クワバラクワバラ、と心の隅で肝を冷やしたのでございます。

先輩ほどではありませんでしたが、アメリカ人を見ると無性に腹立たしい思いとなる自分がいました。

親父とその弟たち、そして母親のたった一人の弟の無念を晴らさずにはおるものか、との復讐心がメラメラと燃えたぎったものでございます。

AV監督となってアメリカに撮影旅行に行くようになって、アメリカ本土のヨセミテ国立公園やグランドキャニオンといった「名所」を訪ね、放尿、スカトロ、のシーンを撮影しました。

ラスベガスの「レインマンの撮影地」として知られる超一流ホテルのスウィートルームでは、室内中を糞尿まみれにするほどに「敵討ち」の撮影を行ったのです。

ハワイの真珠湾上空では、ゼロ戦の英霊たちが奇襲攻撃で辿ったのと同じコースの上空でFUCKの撮影を行い、陰唇からタレ流れた愛液をトイレットペーパーで拭いて、吹き流しのように空に舞わせて鎮魂を捧げたのでございます。

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