永六輔さまはパーキンソン病を患い、重ねて前立腺癌を発症しました。
入退院を繰り返しながら6年近い闘病生活を送りました。
長年続けていたラジオ、レギュラー番組は今年2月に終了しました。
最後の放送は入院した病床からのものでした。
ラジオを永六輔さまはこよなく愛しました。
「ラジオを聞いている聴取者は頭の中に鮮やかな色彩の絵を描いて耳を傾けている。その無限のキャンパスに、想像でいくらでも極彩色の風景を見ることができるラジオが好きだ」の美学を最後まで貫き通した生き方でした。
毎週土曜日の朝8時半から放送されていたTBSラジオの永六輔さまのレギュラー番組が大好きでした。
そのためだけに携帯ラジオを買って、毎週土曜日は楽しみに聞いていました。
番組の中では多彩なゲストが出演していました。
わけても、野坂昭如さまが倒れられてからよせられていた「野坂昭如の今週の便り」のコーナーはお気に入りでした。
脳梗塞に倒れられて十数年の闘病生活の中でも、絶えることのない2人の友情の絆の熱さと強さが、なんとなくラジオから伝わってきて、心があたたかくなったものです。
このラジオ番組でレギュラーのラッキィ池田さまの意外な一面を知りました。
ただの振付師、と認識しておりましたがトンデモナイ、博識で洒脱な、骨のある芸人なのでありました。
TBSラジオの番組のパートナーは、外山惠理アナウンサーでした。
時には娘のように、ある時は恋人のように寄り添った2人の軽妙なやり取りで番組は展開していったのでございましたが、永六輔さまとのかかわりの中で外山惠理アナウンサーが年々大きく成長していくのが分かりました。
時には父のように優しく、そして厳冬の嵐のごとくに、永六輔さまは外山惠理さまに接せられていました。
外山惠理さまのアナウンサーとして押しも押されぬ今日、永六輔さまの作品であったといってもいいのではないでしょうか。
永六輔さまはああ見えても、否、見る通りなかなかの野心家でした。
なんでもやってやろう、の好奇心とともに、やるからにはだれにも負けたくない、の負けず嫌いの性質を持つ人でした。
外見の柔和さと比べて内面は頑固で、こうと決めたら誰に対しても一歩も引かない、強情さを持っていました。
生収録のテレビ番組途中で何度も降板したエピソードは永六輔さまの、「嫌だと思ったら一歩も引かない」一徹の生き方を物語っています。
誰にも負けてたまるか、の内にに秘めたる情熱的な生き方は、晩年の入退院を繰り返した闘病生活にもあらわれていました。
永六輔さまは病院に入院するにあたって「日本一の患者になる」ことを宣言しました。
日本一のお医者さまや看護師に支えていただいて闘病生活を送る以上、患者の自分も日本一の患者になることに努力するのは当たり前だ、との哲学です。
永六輔さまは苦しいリハビリ生活も必死で耐えて頑張りました。
普通の患者であれば悲鳴を上げるような強烈なリハビリも歯をくいしばって耐えました。
それでも我慢できない時は「痛い」と大声を上げました。
もっと我慢できない時は「イターイ」と呻くような声を漏らしました。
そして気を失うほどに本当に痛いときはただ無言で「あ、、、あ、、、」と蚊の鳴くような小さな声が口から聞こえました。
日本一の患者を目指して最後まで周囲に気を使いながら、昭和の芸能史を鮮やかにした「芸能の神」と言われた男の、最後まで日本一になることを貫いた見事な83年の生涯でございます。
オランダ、ハーグの国際仲裁裁判所が南シナ海の問題で、フィリピンに軍配を上げる裁定を下しました。
裁定は予想されていたもので、中国は前から、「同裁判所のいかなる決定も受け入れない」と宣言していました。
中国の主張は南シナ海は何千年も前から自分たちのものだ、というものです。
何千年も前から、といわれると…