東京の、このところの暑さに辟易しています。
東京では日中37度を超えることも珍しくありません。
夕暮れ時、涼を求めて新宿の路地裏通りを歩いていました。
軒先に長椅子を持ち出して、外でお客の肩を揉んでいるマッサージ師がおりました。
見ればお客は白人女性でございます。
施術が余程上手なのでございましょう、目を閉じて軽く口も閉じて、陶然とした表情で身を委ねられております。
白衣を着た白髪の目立つマッサージ師と、目が合いました。
すると師は間髪を入れず「ヨッ、監督!」と声をかけてきたのでございます。
薄暮の中、人の顔がハッキリと分かる明るさではございません。
ましてや師とは顔見知りではなく初対面でございます。
よく一瞬にして手前どものことを「確認」できたものと、驚きました。
それほど他人に顔を知られた有名人でもない手前どもを、師は何故、瞬時に判別できたのでございましょうか。
きっと日々の施術の中でタフな妄想を友となされて、過酷な肉体労働を強いられながら、パワーを全開にされていたのではありますまいか。
自分の存在がお役に立っているようで、なんとも誇らしく感じられたものでございます。
他人さまから自分はどう見られている存在であるか、手前どもは把握することが上手にできていません。
パンツを脱ぎ棄て、安心してください、穿いてませんから、との決めポーズではじまる諸事についての評価はそれなりに理解しているつもりでございます。
が、パンツを穿いて服を着て、普通の人と同じ風体となったとき、世間の皆さまからどんな評価を受けているか、について自分で理解することが困難となっております。
洋服を着ている自分の評価が見えないのです。
かつて福田康夫総理は「私は自分自身を客観的に見ることができるんです、あなたとは違うんです」との「迷言」を吐かれましたが、どうも手前どもにはこの「客観的に見ることができる力」が失われているようです。
人の振り見て我が振りなおせ、ということわざがありますが、齢を重ねて周囲を見渡しても、手前どもと同じようにカメラ片手にパンツを脱いだり穿いたりしている人物が存在せず、他人(ひと)の振り見て我が振りをなおす、の手段を失っています。
大方の手前どもへの見方は「奇人変人のドスケベ」でございましょう、が、それは裸となったときの評価で、洋服を着て通常人を装ったときは、どんな風に思われているか、不確かなのです。
分からなければ分からないでいい、という考えもございましょう。が、相手が手前どもをどう評価しているか分からないと、しばしば不都合なことに遭遇し、不意をつかれることになります。
近所のクリーニング屋の受付のお嬢さまがそうでした。
撮影で使用したセーラー服や下着などをクリーニングに出しましたら「うちの店は今回で最後にしてください」とのセリフをお嬢さまは吐かれたのでございます。
生理だったAV女優さまが…