「私が湯河原の女です、の告白。」

◆村西とおるトークライブ「村西とおるのナイスな夜VOL.6」チケット発売中!!
5月26日(木)PM7:00~
新宿ロフトプラスワン TEL:03-3205-6864
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夕暮れの交差点、信号待ちをして立っていたら10メートルほど離れた所に母とその息子の姿がありました。

母親はメガネをかけた教育ママ風の30代後半に見えます。

少年は小学3、4年生ぐらいでしょうか、何か失態をやらかしたのでしょう、母親に叱られています。

「いい?分かった?駄目なものは駄目って何度も言っているでしょう、どうしてあなたは分からないの?」母親の眉間に険しい皺が寄っています。

リュックを背負った少年の顔の表情は分かりませんでしたが、母親の小言に直立不動の姿勢で「はい、はい」と頷き、素直に耳を傾けています。

その都度に背中のリュックが揺れていました。母と息子の会話は答えを見出すことができないままに信号が青に変わっても続いています。

2人のたたずまいに、少年の日の自分の姿を思い出していました。

昔の母ちゃんは少しも理知的ではありませんでした。

食うや食わずのその日暮らしの生活に追われて、甲斐性無しの父に代わって朝から晩まで働きづくめで、いつもイライラしていたような記憶があります。

何か反抗的なことを言うと、すぐに手が飛んできました。ビンタです。

それでも気がおさまらない時はゲンコツが加わりました。

蹴りを入れられることも珍しくありませんでした。ホウキで殴られたこともあります。

そうした子供への「躾」は何も手前どもの家庭に限ったことではありませんでした。

町内会中の家庭が「躾」と称する暴力で子供を支配していました。

両親には絶対服従、口答えは許されない、という日本的風潮が色濃く残っていた昭和の時代です。

家の中で何かを話すとすぐに、「男のクセに黙っていろ」と叱責されました。

男は黙っていることが美徳とされていたのです。

なんという決めつけなのでありましょうか、その理不尽さに今日においても呆れるばかりです。

あの頃「男は黙ってサッポロビール」、のCMが話題を呼びましたが、まさしく時代を象徴する「言葉」でした。

「いいか、男は片頬だぞ」が両親の教えでした。

「片頬」とは男と生まれたら不用意に生涯笑顔を見せるようなことはあってはならず、見せるとしても「片頬」が少し歪む程度でいい、との教えです。

随分な教育があったものですが、話上手なのは真心のない人間、との偏見がありました。

全く今日ではお笑いぐさですが、男らしさ、とは「生涯片頬」と信じられていた時代があったのです。

寡黙であることが男の象徴、という訳です。

ですから小学、中学時代は家ではまるで失語症にかかったような状態で過ごしました。

両親と満足に会話をした、という記憶はほとんどありません。

一家団欒といったこともありませんでした。

テレビなど無い時代です。夜8時を過ぎればどの家庭でも布団を敷いて横になり、ラジオから流れてくる音楽や落語や浪曲に耳をすませる、といった生活を送っていました。

かといって「不幸」だった、という印象はありません。それどころか、物心ついた頃よりの小学生時代が人生の中で最ものびやか生きていたような気がします。

もう一度人生をやり直すことができるなら、あの時代にこそ戻ってみたい、と思っています。

何かあれば鉄拳制裁を受けて、いつも泣いてばかりで、3食も満足に食べることができず、運動靴なども買ってもらえず、下駄かサンダルか裸足で学校に通っていた、極貧の時代でした。

しかし、そこにはかけがえのない、家族のぬくもりがありました。

厳しく恐ろしいけれど、何かあったら命がけで守ってくれるに違いない、「絶対の愛」を信じることができる両親と家族に抱かれていました。

無防備でいられる、あの安息のやすらぎは、あの時代の記憶以外に手前どもの人生にはありません。

再び信号が変わっても、向かい合ったまま話し合いを続ける母と息子の姿に、まだ見入っていました。

ふと気が付くと傍にもう1人、頭に白髪の見える手前どもと同世代の男性が、同じように母親と息子の姿を見つめていました。

男性は手前どもと目が合うと、「懐かしいねぇ」と独り言のように言って、その場を去って行きました。

男性の後ろをついて歩きながら、振り返ってみると、夕闇の向こうにまだ立っている母と息子の姿がありました。

そのシーンに半世紀以上前の自分の姿がだぶって見え、かすんで見えました。

月に何度か、お巡りさんに職務質問をされます。

事務所と家の間には交番が2ヶ所あります。これまで駐在するお巡りさんにはほとんど「声をかけていただきました」のでこの頃では職務質問を受けることはなくなりました。

それでも夕刻に臨時で降板に派遣されてきたお巡りさんなのでしょう、交番の近くを通ると呼び止められて「質問」というより「尋問」を受けることがあります。

こちらはそれほど頻繁に、というワケではありませんので、余り気にしてはおりません。

困る、というか気になるのは、「いつもの通り道」以外の道を歩いている時に「声掛け」にあうことです。

それもしきりに、と言っていいほどの頻度です。

週に1回か2週間に1回の割合いが「しきりに」というのかどうか分かりませんが、手前どもにはそんな僅かな回数でも「しきりに」と思われてならないのです。

よく街中でお巡りさんに呼び止められて「職質」にあっている人を目撃しますが、大抵は若者です。

手前どものように還暦を過ぎ、ネクタイを締めている立派(?)な大人が「職質」を受けているケースなどほとんど見たことがありません。

人は見かけが9割、といいます。もしそうであったなら手前どもの見かけがそれほど同年代の人間と比べて「職質適格者」なのでありましょうか。

どんな人間でも、ウヌボレ屋さんです。公衆便所の鏡の前で左斜め45度に決めポーズをして「ヨシ」と頷くブ男たちを見て、どんな人間でも「自分が一番」の審美眼の持ち主であることを再確認しております。

手前どの心を探れば同様に、「自分こそは」の自惚れの小箱を秘匿していることに気付くのではございますが、それにしても、でございます。

「職質」にあう回数が多すぎないか、でございます。

恋心と同じように意識すれば意識するほどに歯車は真逆に回転してしまうのが世の常、でございます。

「職質」の方も、お巡りさんの姿を見ると、ついこちらからの表情が理由もなくカタくなってしまい、「職質オーライ」光線を放っているようなものでございます。

「職質」のなにが嫌だ、といって、本部に無線で前略紹介した後、その結果を受けたお巡りさんが「シテやったり」と顔を上気させることでございます。

社会の安全を守るのがお巡りさんのお仕事でございます。

が、必要以上にそのお巡りさんのやる気に火をつける義務など手前どもにはありません。

それなのに、お巡りさんの晩酌のウマミのモトを必然的に提供することになっているのが、なんとも割り切れない気持ちなのでございます。

また「職質」にかかる10分、15分の時間は忙しさに追われている時などは苦痛以外の何物でもありません。

今度、お巡りさんに「どうしたら職質にあわないですか」のアドバイスを聞きに行ってみようと考えています。

ひょっとして365日、外出時にかぶっているニット帽がいけないのかしらん、と思ったりします。

が、元来無精者の手前どもにとって硬質の毛の逆立ちをおさえるためには必需品となっており、このニット帽なくしての外出は考えられないのです。

世の中には手前ども以外にも「職質」に悩まされておられる方は少なくないのではないでしょうか。

できればパスポートのような写真を貼って「職質OKカード」のようなものを発行していただければありがたいと思う今日この頃でございます。

子供の頃、新聞を見ますとドロボーで逮捕された犯人の名前とともに「前科」が表記されていました。

今日では「人権問題」から表記されることがなくなりましたが、昔は「前科5犯」、「前科6犯」などの「常習犯」は目白押しでございました。

前科の持つ意味がわからずに父親に「この”前科5犯”っていうのはどういう意味?」と尋ねたことがございます。

父親は即座に「そんな”前科”がある奴は人間じゃない」と一刀両断に吐き捨てたものです。

歳月を経て、いつしかその「人間じゃない」ような数の「前科」を重ねる過去を持ってしまいました。

「職質」での苦い汁は…

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